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Kichijoji Goody Sound吉祥寺 編集後記
吉祥寺webマガジン
吉祥寺人:ここで出会えたひと。
骨董屋さん(予告編)





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●福田さんはいかにして骨董屋となりしか
(福田さんはせっせと開店準備。その合間を縫ってのインタビュー)

―――お店の前に出ている品物は日によってすぐ替わるし、節句のお飾りや正月用品が出たり季節によっても替わってますよね。どういうふうに選ぶんですか。
 仕入れで新しいものが入ったときはすぐ出しますね。
けっこうすぐ売れるんで、そうしたら店に保管していた品物を陳列するの。(のぞき込んでるお客さんに)先に値段聞いたほうがいいよ。高いのも安いのもあるから。花瓶?その小さいのは安いよ。(花瓶を探しているお客さん)いいのないかと思って、毎日通 るたびに気をつけて見てるのよね…。
  ここにあるのは今日入ったの。それは2千円くらいで売りたいね。

―――今は店の前に陳列してますが、以前はやっぱりお客さんにお店のなかに入ってもらうかたちのお店だったんですか。
昔はね。
―――吉祥寺でこのお店を始めたのはいつごろ?
おじさんが50のときだから、31年前かな。  50になったら仕事をかえようと思っていたから。
(お客さん)これって「つるべ」(井戸から水を組み上げるときに使う道具)かしら?  そう、つるべだね。
―――ということは、その前は骨董屋さんじゃなかったってことですね。
 もともとは親父が田舎で骨董屋をやっていたんだよ。田舎は埼玉 県の幸手町(さってまち)というところ。
―――それがなんで吉祥寺に?
 埼玉県が元々の田舎で、そこから兵隊にいったわけ(太平洋戦争に出征した)。その後両親が代々木に引っ越して、田舎には誰もいなかったのね。その代々木の家も空襲で焼けてなくなってしまった。  それで日本に復員したときには、三鷹台に帰ってきたの。 (この間に最初のお客さんに小さな花瓶を800円で販売)
―――その当時の吉祥寺はどんな感じでしたか。

 この店のあたりは焼けなかったけど、吉祥寺の駅の周りはみんな焼け野原だったね。 昭和26年にここで理髪業を開業したの。理髪業はおじさんがずっと修業をしてた、いわばその当時の天業だったのね。
  勉強がとにかく好きだったので36歳くらいまでは勉強していたんだけど、子供も3人できたし、生活がたいへんだった。このまま学校の先生になってもご飯が食べられそうにないと考えて営業を始めた。
  そのころは専門学校の講師をして、一時間350円くらいだった。おじさんの場合、代用教員だったから安かったのね。
―――専門学校で何を教えていたんですか?

 経営学。当時の理髪師の専門学校には大学院のようなものが併設されていて、それを出ないと講師になれなかった。
―――理髪店は儲かりませんか。
 その当時は料金が今よりずっと安かったし、そのうえに職人さんの人件費がかかるからね。それで職人さんに払うお金ばかり出ていって、月の後半になると生活費があまり残らなかった。  職人さんも、腕を磨いてお客さんに喜んでもらおうという熱意よりも時間外手当てがほしい感じで、おじさんの気持ちに合わなかったし。  それで50歳をめどに思い切って止めた。
―――そこでお父様がなさっていた骨董屋をやろうと。
 私は兄弟が5人いたんだけど、こういう古い美術品に興味がある兄弟が他にいなくてね。
 おじさんだけが興味をもっていたので、店を始める前にも少しずつ実家から昔の店の営業商品を運んでいたのね。親父に断ってだけど。

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文・写真:吉祥寺webマガジン編集部
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